「食べる」の言葉

Keisuke-Nakamura-photo

普段私たちが口にしているのは、動物であれ植物であれ、ほとんどが何かの《死骸》である。その事実を見ないように、人間は《食べもの》という幻想を発明した……。

食べることは、その人が生きている社会、政治と密かに結びつく。食べることを考えることが、何者かにより奪われてしまった自らの生を回復させる。

『食べること考えること』藤原辰史、”365日のほん“より

 

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虫を食べることに対して、多くの人は「いやだ」とおもう。だけど、エビを好きな人は多い。カタチや見た目にそこまで大きな差はあるだろうか。

猫や犬を食べようといえば、精神が異常だと思われてしまうかもしれない。だけど、鶏や豚や牛を育てて食べることには違和感を感じない。

家畜には心がないのだろうか?猫や犬をかわいがるのに。心がなくなってしまうような育て方をしてるのに。あんなに大きな生き物に心がないわけがない、とおもう。おなじ哺乳類なのだもの。

鹿が増えすぎたから、食べる。

クマを駆逐しなくてはならないから、食べる。

捨てて、朽ちるなら、食べていのちにさせていただく。太古からの営み。

生きることは、なにかを殺すということが、今までのこの世界のすべてだった。なにも殺さなくても、生きられる秩序はないのだろうか、と空想をしたりする。

みんなが食べているから食べる。そこには悪意も罪悪感も存在しない。目に見えないところで加工されたそれらを食べることに、あたりまえの行為に違和感を感じない。

動物を食べるのをやめたとしても、植物に感情はあるのだろうか?かなしいだとか、痛みだとか、そうゆう気持ちのような、心のようなものを彼らは持っているのだろうか。そんなことをふとおもう。

命をいただいて、今日も生きているこのいのちを大切にできないことのは、礼儀にかけると、時折おもう。

 

文 natte

写真 Keisuke Nakamura