昼下がりのお風呂と小説

natte-art

昼下がり。お風呂に浸かり、だらだらと本を、それも小説を読むことは、最高に怠惰で、最高に贅沢だと思う。

 

「私の男」 桜庭一樹

私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウィンドゥにくっついて雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれた貴族のようにどこか優雅だった。これは、いっそううつくしい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。

「けっこん、おめでとう。花」

男が傘にわたしを入れて、肩を引きよせながら言った。わたしはこころここにあらずであいまいに一度だけうなずいた。脳裏では、ついいましたがた、待ち合わせ場所であるここに向かって、通りを歩いてきたときの男の姿が幾度もプレイバックしていた。ひょろりと痩せて、背ばかり高い、その姿。のばしっぱなしの髪が肩の辺りで揺れていた。もう若くもないというのに姿勢がよく、安物のみっともないスーツも男がきているとそうは見えなかった。今年で四十歳にもなる、どうしようもない無職の男には見えない気がした。夕闇の空からぱらぱらと、今日なんどめかのにわか雨が降りだして、男はそっと空を見上げた。画廊の入り口にある傘立てから、四十男には似合わない赤い、花柄の傘をためらいなく抜くと、優雅な仕草で広げながらまた歩きだした。雨宿りをするわたしの姿をみつけて、うっすらと微笑んだ。

 

絵・文・引用 natte